2004年11月

2004年11月21日

【私と屋根神】写真の話、その二

前回は筆者が大学卒業後に韓国で暮らしていたときのことに触れました。もしあなたの青春はいつですか、と尋ねられれば迷わず韓国で過ごした一年半だったと答えるはずです。いろんな意味で人間的に大きく成長できたのもあのときでした。殻に閉じこもりがちだった自分の心がいろんな国や出自の人たちと出会い、友だちになっていく過程で開かれていくのを感じました。韓国のみならず様々な国からソウルを目指してやってきた人々との人間としての出会い、それは会社だとか仕事とはかけ離れた出会いでした。

そして出会いは人だけではありません。ちょうど韓総連のデモがあった年の暮れ、韓国で過ごす年末、私は学校で出会った日本からの留学生の友人と二人で韓国第二の都市である釜山から首都ソウルまでの約460キロを歩いて旅をしました。なかなか他人がやらないことで思い出に残ることと思って始めました。16日間かけて歩き切ったこの旅については別の機会にお話できると思います。

私がこの旅で得たのは、冬の寒い時期に長い距離をただ黙々と歩いて身についた冒険心だけではありません。「足で見る」ということ。「足で見る」とは文字通り、実際に現場に行きそこでしか見られないものを見るということ、と自分では理解しています。それに目覚めたのはまさにゴールのソウルに到着してすぐのこと。じつはソウルに住みながらソウルの外を出たことがないという人にけっこう出会ったのですが、私には信じられなかった。とにかく限られた時間で韓国を見てみたい、それには学校いく時間ももったいないというようにです。

学校といっても語学を専門に勉強していたわけですから、授業は半日で終わります。真面目な学生はその後図書館で勉強するらしいのですが、私は「実地の」勉強をすることが楽しみでした。韓国の首都ソウルには私が留学していた当時、全人口の4分の1が集中しているといわれていました。自分もソウルに住みながらまだまだ知らない所がたくさんあるはずだ、そう思い下宿のある西大門区新村から歩いて出かけた先は市場。市場に行けばその国の文化を知ることができるとよくいいますが、その言葉を知る以前に市場に向かいました。ただ目的もなくただ歩きにいくのです。するとそこには日本では想像もしないものがあるのです。

最近韓国料理が人気のようですが、私が韓国に行く前はまだ焼肉の付属品だったような気がします。しかし今では繁華街に行けば韓国料理の看板を探すのを苦労しないどころか、あっちにもこっちにも、こちらが探さなくとも向こうから視界に飛び込んできてくれます。キムチが日本の家庭内に受け入れられたように韓国料理も市民権を得られつつあるのではないでしょうか。

石焼きビビンバやジョン(チヂミ)、各種チゲが受け入れられている半面、マイナーなメニュー、というか絶対に日本では受け入れられないメニューがあります。補身湯(ポシンタン)とは漢字で書けば何やら体によさそうなスープを連想しがちですが、何を隠そうこれ犬の肉のスープです。私は今では韓国に行くたびにわざわざ補身湯屋に足を運ぶほどのファンになりましたが、これを口にするのに半年かかりました。なぜ食べたのか、その動機は忘れましたが、韓国の生活に慣れたころ余裕が出てきたのでしょう。大学時代に韓国の田舎を旅してたとき、今日こそ絶対食べるぞと意気込んで店に入ろうとした瞬間、どこからともなく犬の鳴き声が聞こえてきて断念したことがありました。実家で犬を飼っていますから、その犬の顔が思い浮かんでしまって...。ですが意外と食べてみるとおいしいですよ。肉には若干臭みがありますが、香辛料でその臭みが消されるだけでなく、辛味のスープを口に含めば額からは溢れんばかりの汗がしたたり落ちます。これこそ夏を乗り切る秘けつだ! と韓国の男たちからもてはやされています。

また話がそれましたが、ソウルの市場には食料品から衣類、日用生活雑貨までありとあらゆるものがそろっていますが、ときにはわけの分からないものまで売られています。狗肉(犬の肉)はれっきとした伝統文化の食料品ですが、市場の奥に行けばまる一匹から各種パーツまで売られています。最初はびっくりしましたが何度も通ううちに慣れてしまいます。ソウル市内は外国人観光客が多いせいか大きな規模では売られておらず、むしろ郊外の市場の方が売り方が大胆です。あえてどういう売り方とはいいませんが、気になる方は城南市のモラン市場にお行きなさい。

当時の下宿の壁には韓国全図とソウル市の地図を張っていました。そうしながら自分が歩いた道と地名に蛍光ペンでチェックを入れては今度はどこに行こう、などと考えていたものです。韓国内の旅もたくさんしました。今だからいえますが、学校で行われた韓国企業の面接も翌日から長期の旅に出るから準備をしなくては、という理由で休んだことがありました。私にとっては留学後の就職よりも限られた時間の中でどれだけ韓国を知れるかが問題であり、その先のことを考えるなんてことは時間の無駄くらいに思っていたのです。もちろんそれが後に大きな後悔となるのですが。

韓国にいき、得られたものは数しれません。生活に困らない程度の韓国語の実力が得られたこと、内省的な性格が少しは外向きになったことエトセトラ。だけど一番大きいのは、「足で見る」ことだと思います。

今私が追究しているテーマである名古屋の屋根神さまとの出合いが、帰国後、なかなか就職できないという挫折感や先に就職した友人へのコンプレックスから救ってくれました。現場に行き写真を撮りながら地元の方からいろいろな話を聞く。関係ないことも聞きながら信頼を得ていく。信頼は一朝一夕に得られるものではなく足繁く何度も通いながら顔を売らなくてはいけない。不思議なもので以前勤めていた会社では取引先の人と名刺交換しても顔を覚えてほしいとは思わなかった。だけど屋根神さまの撮影については積極的に顔を覚えてもらうように努力しました。特別な有名人ではなく、屋根神さまをまつっている地域の人々だからこそ、「よそ者」が人間関係を作ることは難しいのです。

私には写真の技術はあまりあるとは思えません。カメラ雑誌に掲載された写真を見てため息をついています。尊敬する写真家の写真集を見てもそう。彼らの写真には一枚一枚にメッセージが込められています。シャッターを一回押すにもそこにたどりつくまでに幾多の苦労があり、一回のシャッターにはいろんなメッセージを込めているのでしょう。ただ撮っているのでは記念写真と同じですから。写真で伝えなくてはいけないし、伝わるような写真を撮らなくては他人はその写真を感じてくれないでしょう。

恥ずかしながら私は伝わる写真、感じてもらえる写真を撮っているのでしょうか。名古屋の民間信仰を写真で記録しようと思い立ったのは、数年前に行政のとあるえらい様と話をしたことがきっかけでした。屋根神さまという名古屋に多くまつられている神さまは町内や隣組でまつられているため、神さまのお守をやるもやめるも地域の人々の裁量である、がそれ以上に建築的な価値はない、と斬り捨てられたのです。城郭や旧家などは文化財として国や自治体など公の機関によって補助がなされるようですが、人目につきにくく昔からひっそりと守り続けられてきたものはどうでしょうか。時代の流れに任せて消えていくだけの運命です。さらにそこに先のえらい様のような考えでは跡形もなく消えていくのが関の山でしょう。

その前になんとかできないか。地域の神さまを他地域の私が面倒見ることはできません。それならば写真で、と始めたのが4年前。以来写真を撮り続け、写真展を開催するまでになりました。が、まだ正直、カメラの構造もイマイチ分かっていない、尻の青い新参者です。ただ、カメラを操作する技術よりも明日なくなるかもしれない被写体に気を使う方が先決! と思いつつカメラの説明書を見ながら切磋琢磨の毎日です。

2004年11月17日

【私と屋根神】写真の話、その一

久しぶりに写真家・桑原史成さんの本「報道写真家」を読みました。内容は読んでいただければ分かりますのであえて説明はいたしません。僕がこの本と出合ったのは大学時代、生協の書店でした。たしか大学三回生のころだったと思います。そのころは「写真」とか「報道」という言葉にそれほど、というかあまり敏感ではありませんでした。少し前に読んだ石川文洋さんの「報道カメラマン」に大変感銘を受け、その続きとして読んだという感が強い本でした。

しかし、そこには強烈なインパクトを与える一枚の写真が掲載してありました。写真集ではないので大きな写真ではなく章の扉に掲載されている小さな写真です。線路の途切れた鉄路。つまり分断以前は朝鮮半島北部までつながっていた線路が朝鮮戦争時に分断、現在にいたっているという風景を撮ったものでした。これ以上に分断国家韓国を物語る写真があるだろうか、と当時の僕は衝撃を受けました。そして数カ月後に韓国を訪れ実際の現場を目にしました。ちなみ現在は南北融和事業の一貫として南側から北に向かい線路が布設され、鉄道分岐点は北上しました。

今年「一枚の写真が国家を動かすことがある」というキャッチフレーズの雑誌「DAYS JAPAN」が発刊されました。国家とまではいかなくとも一枚の写真が人のその後、将来を変えてしまうことは往々にしてあり得ることではないでしょうか。桑原史成さんの写真を見た青年は韓国への旅を果たしその後も何度か訪韓してついに大学卒業とともに韓国に留学することとなりました。

そのころはまだ写真やカメラとは出合っていません。カメラははじめての韓国の旅の前にコニカのビッグミニという簡単なものを買って結構たくさん撮ってはいましたが、別に問題意識を持っていたわけではなく、記念写真に過ぎませんでした。というより写真はお金がかかるし自分とは関係のないことのように思っていたというのが率直な気持ちでした。

そんな僕が写真を撮る、というより自分なりに記録したかった、と今でも後悔する歴史的な事件があります。

1996年8月、韓国学生運動史に残る事件は僕が通う大学を舞台に起こりました。韓国大学総学生会連合会(韓総連)所属の学生たちが全国からソウルに集結し日本からの解放記念日である8月15日に板門店を目指すという一大イベントを行いました。ちょうど学校の夏休みが終わりソウルに上京した直後、学校周辺がいつになく騒がしくなっていました。板門店に向かおうと大学前で気勢を上げる学生たちとそれを「源泉封鎖」する戦闘警察(日本の機動隊のようなもの)たちの攻防。いつしか僕の住んでいた下宿を含め大学周辺は黒い防護服に身を包んだ警察が取り囲み催涙ガスが飛び交う「戦闘地域」になっていたのです。

多くの友人たちが外出したがらなかった一方で僕は果敢に「行動」していました。催涙ガスを「本格的に」浴びたのはこのときがはじめてです。目がしみるなんてモノではありません。目がヒリヒリしお腹は気持ち悪くなるし身動きもとれない。それでも不思議なもので慣れてしまうのです。鼻と口をすっぽり覆う大きめのマスクとその上からもう一枚布を巻けば少量のガスなら防げます。催涙ガスを投げる警察官は防毒マスクをしてますが、学生たちは先述のマスクと目にサランラップを幾重にか巻いていました。もちろん部外者の僕には何もありません。

デモは数日間続いていました。それに伴い学校に行くときは数カ所の検問でボディーチェックを受けます。それを行うのは自分と同い年くらいの警察官です。彼らは兵役で警察で勤務しているといっていました。催涙ガスやこん棒をを振り回す警察官に権力の醜さを感じましたが、職務に就く青年たちは義務として行っているので仕方ありません。それよりも学校に立てこもり「闘争」を続ける学生たちに僕は共感を持っていました。とにかく韓国の同世代の学生たちの姿をこの目で見たかったのです。

学校に行く途中に検問を受けたと書きましたが、いったん学校の門をくぐれば警察のいない「解放区」になっていました。授業を終えそのまま警察のいる方向に向かうのは何となくしゃくだったので、デモのあるなしに関わらず学校の中を通って帰りました。学内に通じる門にはバリケードが築かれておりひと一人しか通れないほど狭い中をくぐらなければならなかったのですが、番をしている学生に「学校の中に行きたいのだけど」と言えば手をとって入れてくれました。そこから学内に入るのですが、それが至難の技であったことを知るのは後になってからのことでした。

当時新聞には学校の様子を写真記事が伝えていました。ということは記者はどうにかして入っていたのでしょう。ある日、テレビのクルーが門で学生たちともめていたのを目にしました。なにかトラブルでもあったようです。フォトジャーナリスト志望の友人は以前取材したときの記者証を持ってカメラを学内に入れていました。しかしそれほど現場には行っていなかったようです。それよりカメラもペンも持たない野次馬の僕は嫌がる友人の手を引っ張り催涙弾が飛び交う正門付近で外の様子をうかがい、催涙弾が着弾すると大急ぎで逃げていました。

その後学校を警察に包囲された学生たちはろう城事件をおこしその過程で警察官が死亡してしまったので、それまで学生に好意的だった市民も学生に対して厳しい目を向けるようになりました。日本の東大安田講堂の攻防と対比する新聞記事もあったくらい。韓国学生運動は大衆や一般学生の支持を失い下降線をたどる契機になったといっても過言ではありません。

前置きが長くなりましたが、僕は自分の身近に起きた事件をただ傍観者として過ごしてしまったことに後悔をしてます。もしあのときカメラをもっていれば、と今でも古傷がうずくように思い出してはため息をつくのです。カメラを持っていても何もできなかったかもしれないし、下手をすればその後の留学生活に支障をきたしていたかもしれない。まだ悪名高き治安機関が健在でしたから。それでも何かできたはずだと思ってしまうのは過ぎ去った過去だからでしょうか。

映像の記録は一度起こってしまった過去を再び記録することなどできません。だから後悔し悩むのです。車の通らないロータリーでヘリからまかれた催涙液を避け学生たちの後を追って逃げたこと、警察の装甲車から発射された催涙弾が学生側で見ていた自分にまで向かってきたこと、学生が投げた火炎瓶が目の前で炸裂したこと。警察側、学生側、どちらにも自由に行き交っていたからこそできることが多かったのではないか...

それから4年後。自分で一眼レフカメラを買いました。会社で仕事として撮るときはもちろん、必要のないときも必ず携行していました。休日もいうまでもありません。その瞬間はその時にしかなく、その時を逃せばいくら後悔しても戻るものではない。撮りたいときに撮らなくては二度と撮れない。当たり前のことですが、桑原史成さんの本を読み、かつての恥ずかしい時代を思い出してしまいました。

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モリマコトの紹介
1973年7月、名古屋市瑞穂区出身。立命館大学卒業後、韓国・ソウルに遊学。帰国後の「ふがいない時期」に図書館で偶然であった屋根神さまに魅せられる。現在、名古屋市内を中心に愛知、岐阜の屋根神さまを撮り歩き、「屋根神さまのある風景」「まちの文化遺産屋根神さま」等の写真展も開催している。名古屋市熱田区在住。